700年の歴史を誇る由緒ある日本三大山城の一つ、日本100名城選定。岐阜県「岩村城跡」

標高717mの「岩村城」。霧が発生し別名「霧ヶ城」とも、東洋のマチュピチュと呼んでも相応しいのでは?

日本のお城の中で一番高い所にある由緒あるお城

 岐阜県恵那市より明智鉄道明知線で6番目の駅「いわむら」から南東に約12kmにある「岩村城跡」、岩村城は高取城(奈良県)、松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城で『日本100名城』にも選定されています。城は江戸諸藩の中で最も高い標高717mに築かれ、高低差180mの地形を巧みに利用した要害堅固な山城です。高度により霧が湧きやすく、別名「霧ヶ城」とも呼ばれています。戦国時代に、織田信長、武田信玄、徳川家康の抗争が激しくなるに連れ、本格的に山城として築かれました。

岩村城本丸石垣

遠山景朝以後、戦国時代(16世紀初め)まで岩村遠山がこの地を治めていた。

 この城の歴史は古く、鎌倉時代の1185年に源頼朝の重臣「加藤景兼」によりこの地に地頭に補せられて創築されました。遠山景朝が美濃国遠山荘に赴任した鎌倉時代の中期頃は、平坦部に築かれた砦のようなもので、織田、武田、徳川の抗争が激しくなった戦国時代末期に遠山、武田の手により本格的に城山として築き上げられました。
 鎌倉・室町時代の300年、戦国時代の100年、江戸幕府の300年間に渡り「城」と「城主」が連綿と移り変わり、明治に至り廃城令により廃城されました。城の歴史は700年に渡り、日本のお城にも例を見ないものです。

岩村城・本丸の六段の石垣

安土桃山時代、美濃・岩村城は「女城主」伝説のお城と言われています。

 1571(元亀2)年に、城主の遠山景任(かげとう)が病死により、信長の叔母にあたる女性が「当主」となりました。信長は当主不在の城に、5男御坊丸(後の勝長)を養子として送り込み、武田方だった城の乗っ取りに成功。景任夫人が、織田、武田の二派に分かれた家中を織田派にまとめ、幼少の養子に代わり「女城主」として差配を振るいました。  
 1572(元亀3)年、上洛を目指して行動を開始した武田信玄の別動隊、秋山信友によって包囲される。信友は夫人を説得し妻に迎えて、御坊丸に家督を譲るという条件で無血入城をした。信長は激怒し、岩村城奪還の兵をあげたが逆に攻撃を受けて退き、東濃での武田優位の情勢が続いた。
 1575(天正3)年、長篠・設楽原合戦で武田の勢力が衰えた後、信長は嫡男・信忠を総大将に大軍を差し向けた。信忠は約半年間、城を包囲。秋山は、援軍がかないまま、城兵の助命を条件に城を信長に明け渡した。しかし信長は、助命の約束を翻し、信友夫妻ら5名を長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されたと言われている。
 ここで登場する夫人(女城主)の最後は謎で、信長に成敗されたとも、信忠本陣があった大将陣で夫妻ともども処刑されたといろいろ諸説があります。
 女城主の伝説は、家臣や領民を守る為、敵方の条件を受け入れて自らをかえりみず心優しい凛とした「当主」であった事が、現在の『女城主伝説』となったのではないでしようか。戦国を生きた才女として、地元では、「女城主」と名付けた日本酒が売り出されています。

岩村城本丸埋門

岩村城本丸跡

岩村城本丸パネル

アクセス・住所

 岩村歴史資料館駐車場から本丸まで歩いていかれるのも結構ですが、ご年配の方には、国道257号線より本丸まで車で行かれるのをお薦めします。ただし本丸近くは、石の階段が不揃いで登って行くのに大変です。
 見学者は、「山城」人気の影響で、駐車場には足立、松本、埼玉、浜松、大阪と遠方からの車のナンバーが見えました。

岩村町字城山
電話 0573-43-3057(岩村歴史資料館)
アクセス
[車]
中央自動車道「恵那IC」より、国道257号線で約20分。
岩村歴史資料館駐車場(無料)より本丸まで徒歩30分。
国道257号線から本丸まで車でも可。(マイクロバス等大型車は通行不可)
[電車]
JR中央線「恵那」駅より明智鉄道で「岩村」駅で下車。(恵那より約20分)
駅より岩村駅まで徒歩約1時間

岩村観光協会
http://iwamura.jp/

(ぶら旅ネット K.Yamada)

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