仏教が伝来した頃に在位していた欽明天皇の墓:奈良県高市郡明日香村
欽明天皇陵の場所には2つの説があり、その一つがこちら!
欽明天皇陵について(2015.1取材)
この欽明天皇陵(別名:平田梅山古墳)は、仏教が日本に伝来した頃に、
在位していた欽明天皇の墓とされています。明治5年以前には、現在、
吉備姫王墓に置かれている猿石が配置されていました。
欽明天皇陵
濠に囲まれた前方後円墳
この欽明天皇陵は、濠に囲まれた前方後円墳で、近年の発掘調査で、葺石も
良い状態で残っている事が明らかとなっています。古墳時代後期の前方後円墳で、
主軸は138メートル、後円部径は72.7メートル、前方部幅は107.2メートル、
後円部は高さ11.5メートルとされています。
濠に囲まれた前方後円墳
「欽明天皇」とは?
第15代応神天皇から分かれた傍系の出自であった継体天皇と手白香皇女
との間に産まれた子で、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え入れ、
嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子である広庭とされました。権力基盤は
確保され、539年(宣化天皇4年12月5日)には、まだ若い広庭が即位し、
欽明天皇となりました。
欽明は傍系が解消され、現皇統へと続く祖となり、天皇が皇女を皇后とする
という流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化天皇、
安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、
欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されています。仁徳天皇を
唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続きました。
欽明天皇陵正面
不確かな即位年
「日本書紀」によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御した後即位した
とされていますが、諸説あり、父の継体天皇の没年を「古事記」の527年
(丁未年4月9日)とし、その後2年ずつ安閑・宣化が在位して「日本書紀」
での継体の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる、531年に欽明天皇が
即位したという説、欽明の即位を認めなかった勢力が3年後の534年に安閑を
擁立、1年で崩御し、続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立、
宣化の崩御により解消されたという説。また、継体は暗殺されたという説もあり、
継体の没年、安閑が8年間在位し、535年に欽明が即位、宣化は架空の人物と見なし、
白崎は安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したという説。
継体天皇廿五年での、天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠に
それぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁され、大伴金村は
任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推した為に、
後継者争いに敗れて失脚したという説。
現在、いろんな議論がなされていますが、その真偽はまだわかっていません。
欽明天皇陵内
仏教伝来
552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来したとされています。
(仏教伝来そのものに関しては、戊午年・538年とする説が有力です。)。
これにより、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、
物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までしまた。これにより物部氏と
蘇我氏の間に確執が生まれました。
欽明天皇陵外観
欽明天皇陵へのアクセス
奈良県高市郡明日香村平田
電話:0744-20-2001
時間:通年:常時
休業日:無休
(The Shadow)